高瀬川第五発電所 堆積砂(本流の堆砂)により取水停止2023年3月発生.その後
堆積した砂利を撤去しないと排水できない。
撤去するには河川法にそって県に申請する必要がある。
「撤去した砂を適正に野積みする」との営利目的でない旨の申請をあげて、 実は砂を販売した会社( 3法人 )が長野県大町市にある。 2023年から2025年のこと。
いわよる虚無申請である。 大町建設事務所はこれを知っておるが行政指導はしない。長野県知事には通報しておいたが、 握りつぶしたらいい。
これが忖度と世間では云う。
堆積した砂利を撤去しないと排水できない。
撤去するには河川法にそって県に申請する必要がある。
「撤去した砂を適正に野積みする」との営利目的でない旨の申請をあげて、 実は砂を販売した会社( 3法人 )が長野県大町市にある。 2023年から2025年のこと。
いわよる虚無申請である。 大町建設事務所はこれを知っておるが行政指導はしない。長野県知事には通報しておいたが、 握りつぶしたらいい。
これが忖度と世間では云う。
河川区域の堆砂物なので、堆積砂を運びだすには行政の許可が必要になる。 たまたま長野県の管理河川なので、申請の認可は大町建設事務所がおこなう。河川砂利を採取販売することは長野県は1978年から50年継続して禁止しておる、
第五発電所の堆砂砂は、障害になるので撤去し適正に安置することで許可がでた。 しかし良質の砂利が欲しい土建屋が、撤去して売ってしまった。 東電はそんなこと認めてないが、土建トラック屋3社が堆積物を金銭と交換してしまった。 それに気付いた長野県は火消し中(2025年からいまも)。 国土交通省から監督責任を問われるので火消し中。
発電所建屋は、生コン注入時期になっている。箱物完成予定が5月だった記憶だ。FIT申請一覧(長野)にKW詳細がでている。 昭和電工が自家発電所をFIT登録して現金収入化したのと似ておる。
今年11月から運転したいが、船で発電機を輸入する日取りがもうひとつらしい。
下請けに、オイラ知人の株式会社(30人??)が入っておるので、遅れるようならば聞こえてくる。冬季は凍るので水力発電はお休みになる。
穂高を有名にしたドラマ
1
鐘の鳴る丘
NHKラジオ第1放送で1947年(昭和22年)7月5日から1950年(昭和25年)12月29日まで放送
建物の老朽化を忍びなく思った鳴澤悦郎氏(法政大学評議員)が、土地・建物を私費で買い取り、穂高町に寄贈した。 安曇野市職員はこれを知らずに働いている。
2
1975年 水色の時 NHK
大竹しのぶ(新人) 米倉斉加年
初主演のドラマである。
これ以降、ワサビ畑の知名度があがり盛夏には2000本/1日のアイスクリームが 御法田で販売されるきっかけになった。
御法田は脱税で2回TVに報道された。3度目がいつになるか?が住人の関心事である。
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上田の刀屋(蕎麦屋)のおいちゃんがNHKの料理番組にでていたのは2回覚えている。当然井戸水。
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保高氏 と 穂高。
穂高神社奥社は明治動乱期に建立した。(昭和60年頃にこれは刊行本になっている) 表向きには古来からあるような振りではあるが、明治以前には猟師すら足を踏み入れたことのない地域であるので、道案内レスで神主の体力では登ることは無理。
上高地までのルートは庄屋の務台一族(温村)が知っておった。穂高の住人は登山ルートも知らずにて案内人なしには辿りつけない。
逆賊な安曇族の見張りに仁科神明宮を朝廷は建立した。仁科エリアは古来から荘園である。仁科の大日方一族は帯刀を許されている。 帯刀は「おびなた」と読み、おびなたに大日方を当てた。大日方氏本家( 社 )には古刀2振りがある。(彼は子なしだったので、どうしたか?は気になる)。 戦中は朝廷(昭和天皇)の守りとして大日方本家が仕えていた。(本家の実子から聞き取り)
大日方の縁者に小川庄:大日方一族がいる。 戦前、小川村は大日方氏の所有であった。小川:大日方本家の前当主とは数度お話させていただいた。今は鬼籍。
逆属安曇族による祟りを怖れた朝廷は、たたり神としてまつることを決めた。穂高神社と称される。 これは菅原の祟りが神と同様である。 菅原氏の場合は先例(安曇族)があったので、早い判断できた。
穂高神社はたたり神なので、 行かないほうが安全。
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安曇平は、河川が造った盆地を指す。
山麓は先住人が洞窟に住んでおったので、そのような狩猟地域は安曇と呼ぶには苦しい。
範囲は、北の河川合流点から南の河川合流点までである。
堀金、三郷、島内、島立は安曇でない。高瀬の水が届かぬエリアは安曇でない。
山麓の住居は鼠穴と呼ばれ稲作民からは馬鹿にされていた。三郷では食べ物 いわゆる食性が違うので安曇にはなれない。
北: 中房川と高瀬川合流点。 川合神社あり。川合神社は諏訪神社同様に延喜式に載っている。
南: 高瀬川と梓川合流点。 高家
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松本藩主の小笠原本家は、中山に居がある。「前当主とはオイラも既知」である。
小笠原 分家とはいまも接点がある。(せとか を送っておいた)
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山岳信仰では、有明山が開祖されている。木曽 御岳も開祖されている。
しかし穂高岳で開祖した人物はいない。草鞋で登るには困難。
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水のうまさ比較。
生は松本城東。 庭の井戸水。
育ちは大町 : 居谷里湿原の上水道。
転居して池田町に35年。池田町の上水道は大町市からパイプでもらっている。
先般小岩嶽に戻ってきたら、簡易水道ではなくなっていた。
高瀬川左岸と右岸では水のうまさが違うことは、転居の度に分かった。 先般のおおゆれで高瀬川左岸での湧水がかわり、薄井の酒屋は地下ボーリングしなおすようだ。 池田町の上水道はかなり拙い。
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長野県大町市に館を築いた仁科氏は、大町に京都風の町割を敷き、近くには貴船神社(きふねじんじゃ)、北野天満宮(きたのてんまんぐう)など京都の社を配します。安曇野一帯には、高瀬川(たかせがわ)、木舟、定光寺、小倉、室町橋、吉野、大原といった京都を連想させる地名が多く、これも仁科文化の名残でしょう。
一方、松本平(まつもとだいら)では、中世を通して信濃(しなの)と最も深い関係を持つ武将・小笠原氏(おがさわらし)が台頭してきます。全国で最も早く武士出身の国司が誕生(1185年)したのは信濃とされていますが、その初代信濃守(しなのかみ)が源氏の加賀美遠光(かがみとおみつ)です。遠光の子孫が小笠原氏となり、中興の英主といわれる貞宗(さだむね)が松本市の井川城に居館を構えて筑摩(ちくま)郡の拠点としました。
その後、小笠原氏は有名な「大塔(おおとう)合戦」で敗退しますが、再び信濃の守護職に復帰。しかし、内紛が絶えず武力による闘争を繰り返します。通常、戦国時代は応仁の乱から始まるとされていますが、その兆候を20年前のこうした信濃の抗争に求める識者もいます。
余談ながら、礼法の「小笠原流」は、この小笠原氏がまとめたものです。小笠原氏は江戸時代にも一時松本藩主となりますが、改易されて、最後は小倉藩主(九州)として生き延びています。
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安曇族が反乱を起こしたとされる具体的な歴史的出来事は、磐井の乱(527年)です
阿曇山背 死没は663年、
阿曇山背の祟りを怖れた朝廷が、鮭の狩猟基地を神社にした。祟りを封した神社なので、怒りに触れぬように。
延喜式には川合神社(現 池田町)も載っておる。ここには神はいた。
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辰の子太郎。
上田の産川(さんがわ)から赤ん坊が流れてきたのをお婆さんが拾い上げ、小太郎と名前を付ける。小太郎が成長してしばらくすると、婆さんもまた病で亡くなってしまう。一人ぼっちになってしまった小太郎は、昔お婆さんが「お前は千曲(ちくま)の湖に住む龍の子どもに違いない」と言っていたことを思いだした。
龍は天照大神系神話には登場しない。
漢字到来は西暦82年頃。それ以前の文字には幾つか種類があえう。
空海が龍を召喚したのは記録にある。善女竜王との名前。
天津族が日本国に来る以前の宗教にだけ、龍が登場する。
天津族によって制圧された民が多い。
1:出雲系民族神話にはサメが出てくる。
2:天津系民族。すまいは茅葺になる。
3:それに土着民族しいて言えば土蜘蛛の3種に分かれる。(横穴生活していたので土蜘蛛と呼ばれた)
天照族と龍族は波長が合わないのも事実。 祝詞で混ぜているのもあるが、正しくない。
高野山の結界は破れておる。邪悪なものがもれでている。
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信濃国は古代の律令制度の下で設置され、10の郡に分けられていました。
1876年に筑摩県が長野県に合併され、信濃国の全域が長野県となりました。 「州」とは国を意味し、昔中国で使用されていた「国の漢字1文字+州」という呼び方で「信州」となりました。
信州の呼称歴史は、 近150年しかありません。
神州天馬侠も有名です。
1
三郷村で錦を飾ったのは務台理作氏。「へ-ゲルの歴史哲学研究」
務台一族である。
2
槍ケ岳の近代史(1828年 播隆上人開山)には、名が上がる務台一族。
旧野沢村(安曇野市三郷)の庄屋、務台与一衛門影邦が天保6年(1835年)播隆上人と槍ケ岳山行。
新田次郎氏による「槍ヶ岳開山」が書かれ、新田氏はそれにより山岳小説という新分野を切り開いたと評価されたとある。
1880年に槍ヶ岳に登った英国人ガウランドは、山頂からの景色を「ジャパニーズ・アルプス」と命名。この名称は、やがて英国人ウエストン(1892年に槍ヶ岳登頂)によって世界に広められ、同時にMt.YARIの存在も世界の登山家に知られるようになりました。
3,
当代の務台俊介氏(東大、法学部卒)は、総務省出身の代議士(麻生派)であった。2024年落選。
オイラも近8年ほど自民党代議士さんたちとは接点があったので、お茶菓子をもって顔を出してきた。6月6日、
登山する代議士は長野県内には彼しかいないので、山小屋のこと登山道整備のことは、自然と彼に集まってくる。 県会議員で登山を趣味とするものは安曇平にいない。
安曇平の治水・治山を深く理解している人物なので活躍できる場が必要だろう。
オイラ育ちは、大町市の中央電気の裏だ。 中央電気がclosedしたら福島さんは 田舎法人の台湾工場長として赴任していった。
2024年の能登地震で水路が動いたようで 池田町では井戸水が上がらなくなってきた。もともと湧水が乏しくて、北隣接の大町市から水道水をわけてもらっている。 結果、水道蛇口からでる水は不味い。導水管が敷設50年経過するので不味い。殺菌にいろんな薬を投入するので不味い。
井戸水(深度70m)も不味い。
酒屋大雪渓は、湧水量が減ったので新しく井戸を掘ったらしい。旧井戸深が50mなので 今回は100は掘ると思う。
高瀬川左岸の水は不味い。
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大町市の水は全体的にうまい。
青木湖では行政の上水道がきていないので、超簡易水道になっている。 その水温は一桁なので、冷たく手が真っ赤になる。
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中房川上流は硫黄臭するが、人里ではそんな匂いはしてこない。
小岩嶽では、簡易水道だったが、 オイラの知らぬところで本水道化されていた。
山葵畑近傍の水は さほど美味くない。
山の斜面で採取している上水道だけは美味い。
美味さでは 「 有明 の上水道 >> サントリー天然水。 」
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湧水は 降雨後10年程度の若い水だ。超大手コンサルが行政から請けて調査したらそうなった。
100年前の雨水ではない。
地中圧があるので地表水は浸透していかない。毛細現象程度では地下200mには地表水は届かない。このの研究が弱いことも分かった。
つまり地下水汲み上げると、地表水は浸透していかないので空洞ができる。 地盤沈下する要因になる。
日本では農薬が大量に使われているので、台湾側で イチゴ廃棄。2025年1月7日。
情報元。
イチゴは夏季の作物。春5月頃に中房川、高瀬川沿いでみかけたが、農薬普及でみかけなくなった。
ハウス栽培で旬でない時期に出荷。
堆砂が多いので、排水面高さがあがり発電機を緊急停止させ今にいたる。
このことは東京電力から国土交通省に即日報告済みである。 公表するかどうかは監督官庁の判断に依存する。
崩沢砂防堰堤、不動沢堰堤堰堤が国策にて戦前整備され、昭和25年時点では満砂になっている。 そこで省は大規模な砂防堰堤を設置することを計画した。(昭和20年半ば)設置場所は建設省が決定。
高瀬川エリアでは1920年に地元の土建業相模組のチカラをかりて東信電気が高瀬第一発電所工事を開始しており、この高瀬第五東信電気としては5番目?の発電所にあたる。
高五(たかご)と略してよぶ。高五は1925年稼働。
この電力を利用して昭和アルミ工業所(のちの昭和電工)が誕生し、大町で産声をあげたのが1933年。 この昭和電工の売り上げをベースにして森コンチェルンが形成されていく。呉羽紡績が「大町紡績」として1936年に進出。
東洋紡に吸収されたあと地元ではクレハと呼んでいた。オイラの記憶では吸収後の1972年ころまで呼んでいた。呉羽の生協は良かったぞ。
高瀬ダム着工の切っ掛けは昭和44年(1969年)の水害である。 森コンチェルンの母体である昭和電工敷地が浸水し、松川村では田んぼが水没してしまった。 森コンチェルンとてお怒りになったので、省は慌てて洪水が引けて直後に砂防工事を発注した。
「暴れ高瀬」として土建屋には有名な、高瀬川である。 また槍ヶ岳からの本流は上質な骨材とも知られており、霞石は江戸時代から珍重もされてきた。 霞石の採取・販売だけで業として成り立っていたようだ。 そこに天然記念物指定されたので、霞石のことはいまは知らない地域住民の集まりになった。
昭和20年代の科学技術では画像検査などない頃であり、上流から流れてくる岩砂量を測ることはできない。 画像検査が技術としてでてきたのはwin3.1以降である。国産ではチノンCCDが技術TOPであり、後続に東芝がつづいた。レンズマウウントのCマウウントは、東芝制定規格が国際的に普及した結果である。
グラフィックボードが廉価になりだした1999年ころから京都大学の「画像による堆積量調査」がおこなわれるようになった。高瀬ダム着工が1969年なので、流下量を掴めるようになるまでに30年の違いがある。 土建業での分析は京都大が国内TOPであり 産総研はちと劣る。東大はこの分野弱い。
堆砂が多いと2000年頃から云われても、着手時には測る技術が地球上で存在しない。その指摘は時間軸上で間違っている。
「測る技術がない時代にどうやれば測れるのだ」とオイラは逆質問したい。
日本平均 300m3 /km2/年になっている。これは京都大学の防災研究所論文にて公開されている。
高瀬ダムは5470m3 /km2/年なので 日本平均の15倍速く溜まる。 けっか土砂多量にて2100までに満砂になる。 そこで焦った国土交通省が ダム砂排出を考えついた。
2023年3月に緊急停止した。国土交通省には当日報告済み。
味の素の鈴木商店が電力を探して長野県に注目し千曲川での発電検討していたら小坂家が発電所を建設はじめた。 それじゃと、あちこち視察して高瀬川に決めた。
物資輸送が人馬の時代。信濃大町駅が1916年に私鉄駅として開業。 駅舎は相模組(当時は大町町)による工作物。
高瀬川発電予定地までの物資輸送にトロッコ私鉄を東信電気 (鈴木三郎助)が軌道を造った。東信軌道と呼ばれた。この軌道工事は相模組の傳刀班、峰村班、市川班でまとめあでた。
軌道で物資搬送できたので、1922年に第一発電所稼働。
東電高瀬第五発電所は1925年の稼働。この第五が鈴木商店単独の最初の発電所。(第一から第四までは小坂家からの技術支援もあった)
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停止中の第五発電所は、 国土交通省からの工事認可がでないまま15月経過中。
リプレース案1 :現位置にて10mほど持ち上げ
リプレース案2:現位置より山側に寄せる。
案1 あるいは 案2にするかは、国土交通省のお気持ち次第。 公務員様のお気持ちに整合しない案は受け取らないのが公務員。現状は、「お気持ちをどちらにするか決めきれない国土交通省 治水課」。
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2015年に長野県建設部と水力発電相談を始めた。正面から話を聞く気がなくたらい回しにされたので、県会議員に申し入れして県庁へ打ち合わせにいったら課長が名刺を持って挨拶によってきた。(2020年)
突き詰めると砂防指定地での認可を長野県はおこなったことがなく初めて。 つまりどうすりゃいいか不明なので たらい回しモードにしたことも読めた。オイラが先陣きったので、それ以降は、砂防指定区域における手続きマニュアルが建設部内部でできあがった。
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安曇平での水力発電の歴史:
松本は安曇平ではない。高家(梓川の合流点)から大町エリアを安曇野と呼ぶ。安曇族の食性は、松本住人とは違う。
中部電力所有の姫川発電所は、庄屋の横沢氏(塩島区)の私財投入によりできた。生坂ダム、中房川の発電所すべて、横沢氏の私財投入で完成した。 横沢氏は没落した。
中部電力での水力開発歴史は安曇平にはない、私企業が私財投入し 採算ベースに載らないので売却され、それが回りまわって中部配電の所有になった。
水力発電での技術的なことを中部電力に相談しても まともな答えが戻ってこないのは開発歴史がないからだと理解している。林地で電柱引く相談したら「名古屋に話してくれ」との所長談だった。
「出来上がったものを買う」のに技術は不要。 人も合わせて手にいれりゃ 便利。
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保髙 と 穂高。
明治維新直後では保髙村。「保髙」の初見は1510年にまでさかのぼる。
保髙氏の神社が 穂高神社である。 漢字表記で意味を分けていたが 今は混沌としている。
水路をつくり米作が良好になって地名に 穂の文字をあてて現在にいたる。
保髙と呼ぶのが、歴史上で正しい。
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